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筋ジス母さんのドキ・メロ日記

1999/11/11 掲載

(2001/07/24 レイアウト変更)

埼玉県 嶋崎とし子

生まれた!

 分娩台の上で、私の意識は朦朧としていました。婦長さんの力強い声で、何度も現実に引き戻されました。腰の痛みだけが感覚の全てでした。「産むのはあなただからね!」という先生の声が聞こえました。息んでも息んでも力が伝わらず、この苦しさが永遠に続くような不安さえ感じていました。先生方のいろんな処置の後、子どもが生まれたことを感じました。1992年10月、長男大介の誕生です。分娩室に入ってから5時間後のことでした。安堵感に包まれながらも、耳と目が子どもの気配を追い、声が聞こえて、姿が見えると、涙が込み上げてきて堪えることができませんでした。夫はそんな私の顔をタオルで拭いてくれました。進行性筋ジストロフィーの私の出産は不安要因も多いとのことでしたので、夫の立ち会いは本当に心強いものでした。そして何より、子どもの人生のスタートを二人で出迎えることができ、本当に幸せでした。

 思えば、私は高校生の時に、自分の病気のこと、そしてそれが父からの遺伝であることを知ったのでした。夫と出会い、結婚しましたが、子どもを望むことはできないと思っていました。しかし、父が亡くなった時をきっかけに、平凡に、明るく、ひょうきんに生き抜いた父の面影を追い、自分の歩いて来た道を振り返るうちに、私は、「幸せは本人次第で誰でも得ることができるもの。障害があるとか無いとかは関係ないんじゃないかな」と思えてきました。そしてそれは夫の幸福観を通しても感じられます。わざわざ進行性の病気の障害者との結婚を決断して、しかも全てを承知の上で「子どもも一人ぐらいほしい」とケロッと言ってのけた夫。彼は人が避けて通ろうとするような生活の先に、なお幸福を見ることができる人なのです。いろんなことを考え、私自身が変わり、それが夫にも伝わり、子どもを授かるに至りました。初めて大学病院に行った時、胎児診断のお話しがでましたが、お断りしました。全て承知の上で授かった命なのです。

 子どもを胸に抱いた時、本当に感動で胸が一杯でした。しかし一方では、顔を見る度に、頭のてっぺんから足の先まで観察して、夫に似ているところを探している私もいました。私たちの幸福観や覚悟に矛盾していると思いながら、いざ子どもの顔を見ると、自分ではなく夫に似てほしい、心の底からそう祈っていたのです。実際どちらに似ているからと言って、夫や私のコピーができる訳ではなくて、一人の人間が、どこにも無いたったひとつの人生を歩むだけなんですよね。

 誕生して4日後、子どもが飲んだ母乳を吐いてしまうということで、小児科に入院することになりました。出産時のストレス(旋回異常、羊水を飲んだこと)などの原因が考えられるとのことでした。「体力が回復し次第CTをとるかも知れない」というお話もありました。後で振り返れば大事をとって下さったのだと思いますが、その時初めて、自然分娩にこだわり続けてきたことを後悔しました。筋ジスの人が帝王切開で出産すると、出産によって体の状態が悪くなる(腹筋を切ることと長期入院のため)という話を聞いたことがあり、私はずっと自然分娩にこだわっていたのです。私は出産によって何も失いたくなかったのです。しかしその時はさすがに「本当にこれで良かったのだろうか………」と不安で胸が締め付けられるようでした。しかしすぐに、気を取り直して、母乳を冷凍して小児科に運んでもらうために、母とオッパイしぼりに精を出すのでした。

 退院の目処がついた頃、何人かの看護婦さんが、知っている障害者の方の育児の頑張り振りを話され、私を励まして下さいました。看護婦のMさんが来室して下さった時も、退院後の話になり、優等生志向の私は、期待されていると思われる返事を元気よくしました。「ハイ!頑張ります」と。するとどうでしょう。いつもにこやかなMさんの顔が急に真剣になり、「子育てはあんまり頑張っちゃダメよ。とにかく長期戦なんだから。ギリギリのところで頑張り続けたり、無理を続けるのは危険なことでもあるのよ」とおっしゃいました。予想もしないMさんの言葉にドキッとしました。初めて耳にする子どもの立場に立って私に語りかけられた励ましの言葉でした。

こんなはずじゃなかったのに

 17日間の長い入院生活も終わり、新しい家族とともに家に戻りました。家に帰って、まず、念願だったシャワーを浴びました。洗い場で、「おなかもへっこんだことだし……」と、台を使って立ち上がろうとしました。ところが、どうやっても立てないのです。仕方がないので、夫の手を借りましたが、重心が全く定まらず、足がガクガクして立つことを思い出せませんでした。とにかく初日からひどく自信喪失し、言いようのない不安と恐怖感を感じていました。4日後に何とか自力で立ち上がることができましたが、私の体は明らかに出産前とは異なっていることを思い知らされていました。

 子どもを前にして、自分がしてあげたいことは何ひとつできないで手を借りるしかない状況が続きました。母乳を与える時でさえ、自分で抱き上げることができず、助けが必要でした。予想していたこととは言え、自分が情けなく、また、実家から手伝いに来てくれている私の母が、世間のおばあちゃんの役割をはるかに超越して、若い母親並に体を酷使し、寝不足になり、疲れているのを見ると、本当に申し訳なく思いました。そして、最も心の深いところに潜んでいた思いは、「私はこれまでの人生の延長線上を歩きたいのに」という気持ちでした。障害者であるが故に、おそらく人よりも自立を意識し、親の保護から遠ければ遠いほど自立していると思っていたのです。そのため、子どもを産んで、最も頼りになるのは「親」だと思っているくせに、私は、母に全面的にオンブにダッコせざるを得ないことに抵抗を感じ、家を出てから私が歩んだ15年がガラガラと崩れ、自分が振り出しに戻ってしまうような挫折感を感じていました。

あだ名はオッパイ屋

 まだ子どもの首もすわらぬ頃です。母が買い物に出ている時に目を覚ましてしまった子どもが、ゲップを出せずに泣き出してしまったことがありました。私は、母親である実感を得たいと焦り、必死に抱き上げようと頑張りました。出産前に3sの人形で子どもを抱く練習をしたのも虚しく、子どもはますます火がついたように泣き、体をつっぱらせて怒りました。そのあげく、鼻からオッパイを吹き出して、その後ウソのようにピタッと泣き止み眠ってしまったのです。しかし、その一連の出来事を一人で見ていた私はすぐには事態が飲み込めず、子どもの鼻の下に手をやって、ただ眠っただけだと確認するまで生きた心地がしませんでした。そして、ホッとすると同時に涙が溢れて止まりませんでした。

 私は何という思い違いをしていたのでしょう。退院の時、看護婦のMさんがおっしゃっていたことの意味がやっとわかりました。自分の思いばかりに捕われて、本当に大切なことを見失いかけていたのです。「一番大切なことは、子どもが安全に健やかに育つ事である」ということを。そしてもうひとつ、一生懸命私たち家族のために尽くしてくれている母を見て、子どもが世に出て最初に、無条件に愛してくれる人たちに囲まれているなんて、素敵なことじゃないかと思いました。母乳の「初乳」と同じように、長い人生のスタートに神さまが用意して下さった濃〜い愛情をたっぷり受けることは子どもの権利だと思いました。

 私は、私にしかできないことに目を向けようと思い直しました。それは、時が来るまでの間、世界中で一番おいしいオッパイを子どもに飲ませてあげるということです。母乳生産者として心掛けることは、何より私自身が平和で、穏やかで、やさしい気持ちでいることが最も大切だと思いました。実家に行った時「オッパイ屋」というニックネームがつけられて、皆にウケたことがありました。母乳を与え続けることで、私は子どもと強力な磁石のように引き合っていることを感じていました。そして、この神秘的な生命の育みの仕組みを感謝せずにはいられませんでした。主治医の勧めにより、断乳はせず、自然に離れるまで母乳を与え続けることにしました。

 母乳を与える時、抱き上げられないとクヨクヨしていたことも、後で思えば束の間のことでした。始め、母や夫の手を借りて私の腕の中に運ばれてきた子どもも、そのうち自分で私の膝に這い上がって来るようになり、そのうち必需品の枕二つ(私の腕をサポートする為のもの)を自分でズルズル引きずって運んで来るようになりました。次第にオッパイを飲む回数が減り、ある程度で満足すると「ごちそうさま」と言わんばかりに私の胸元を閉じて膝から降りていくようになりました。そしてついに1歳9カ月で自然にオッパイを卒業したのです。ひと仕事やり終えた感慨と、寂しさと、子どもとの新しい関係作りに夢が膨らむような、そんな複雑な心境でした。夫が私に「嬉しいのと寂しいのと…ってところやろ」と言ってくれた時は、ずっと見守ってくれていたやさしさにジ〜ンとしました。

選択自立を目指して

 私の体調は、出産前のようには戻りませんでした。何とか立ち上がることができた時も、バランスがとれず、立っていられなくなるほど腰が痛かったり、しびれたりしました。立つこと、歩くことによる体の痛みや、転倒、怪我に対する恐怖心などが積み重なって、最後には歩くことも立つこともできなくなってしまったのです。そして、そうなったもうひとつの理由は、体を使って育児をすることができない分、目で育てたいという気持ちです。私は、自分の体がじれったく、自分の事をする時間さえ惜しくてなりませんでした。少しでも多く子どものそばに居て、ちょっとした事でも全て目に焼き付けたいという気持ちと、動くようになった子どもを目で守りたいという気持ちで一杯だったのです。

 約束の1年が経った頃から、私と夫は、母を実家に帰せるように話し合いを始めました。頭の中であれこれシミュレーションを重ねますが、時間的、経済的な問題、子どもの心の成長に及ぼす影響など、いろいろ引っ掛かることがあり、なかなか現実的な方法は見つかりませんでした。そして、私は心の中で、夫の励ましに反するあるひとつの選択をすることを決断していました。私は、リフト付電動車椅子の導入を提案し、夫の理解を求めて何度も訴えたのです。私の望みは、家族のためにもう一度、苦痛なしに食事を作りたいということ、そして、いつも子どもの方を向いていたい、危ないからお母さんに近づいちゃダメ、触っちゃダメなどと子どもを遠ざけたくないということです。夫は、立つことを諦めないという条件付きで理解してくれ、それから家の改造、リフト付電動車椅子の申請へと一緒に動き出してくれました。しかし私には、この決断は、以前のように立つことや車の運転をすることから益々遠ざかる選択であると分かっていました。

三人の生活

 子どもが1歳10カ月を過ぎたある日、母が全面的に実家に引き上げ、三人だけの生活が始まりました。私は退院以来の不安と緊張を味わっていました。子どもはその時すでに保育園へ通園しており、夫が定時で帰宅し、子どもを迎えに行ってくれます。家でも夫は子どもの世話や食事、雑用にと協力してくれます。子どもにとって、父親がこれほどまでに全力で関わってくれることは、本当に幸せなことだと思いました。私も、夫に感謝しながら私なりに全力を尽くそうと思いました。仕事も今まで通り何とか家で続けることができ、次第に三人の生活も軌道に乗って行ったのです(ただその時点ではまだ、家族の誰か一人が体調を崩すと、もろくも崩れてしまうような、ギリギリの所での安定でもありました)。わが家では、何をするにもどこへ行くにも三人一緒です。そうせざるを得ないからですが、私はそのことをとても幸福に感じていました。その後何度か、講演会などで話す機会もあり、自分でも気づかぬうちに有頂天になって行ったのです。

 子どもが2歳半を過ぎたある時、突然思いもよらない事態になりました。夫が子どものいつものいたずらを叱りながら「やめなさい!またお母さんがキーキーうるさいやろ」と大きな声を出したかと思うと、何かに対してムクムクと腹立たしさが込み上げてくる様子でした。それっきり、日常的な用事は変わりなくこなしてくれるのに、私と口を利かなくなり、目線も合わせないようになりました。私には何が何だか分からず、最初は夫の叱り方や一方的な態度に腹が立ち、そのうちに何を怒っているのか気になり、次第に心当たりについての言い訳で頭が一杯になりました。話し合いたいと思っても、次々に浮かぶ言葉は、どれも関係を改善したり、理解し合うための助けになるとは思えませんでした。そんな中、子どもの存在だけが救いでした。一度、夜堪え切れずに布団の中で声を殺して泣いていると、何故か、平和な顔をしてこちらを見ている父の姿ばかり目に浮かび、もっと烈しく泣けてきました。私は「どうしたらいいか教えて下さい」と神さまに祈るだけでした。

 何日か過ぎた頃、少しずつ何かが見えてきました。夫が何も話さないのは、きっと、話してもどうにもならないこと、話すと何かが壊れて行くこと、あるいは夫自身にも説明できないことが原因なのだろうと。自分のことを振り返ると、夫の優しさや私をいたわってくれる思いやりのまめまめしさに対する私の甘えがエスカレートしていたことに気づきました。夫に対してすっかり遠慮が無くなっていたのです。子どもが危険な事や、後始末が大変になるようないたずらをして、私の行動が子どもに妨げられる度に、叫んだり、夫を呼んだり、すぐ動いてくれないと夫を責めたりしていました。また、育児上、あれをしたい、こうすべきという思いが沸く度に、夫に頼みました。昔、マグマ大使という子ども番組で、少年が窮地に陥ると笛を吹いてロボットを呼んでいましたが、私もまるでその少年のように、いえ、はるかに頻繁に「お父さ〜ん」と叫んでいたのです。その上、「自分でできることは自分でする」がモットーなのに、無意識のうちに、夫がやってくれれば簡単、夫ならすぐできる、とできる事まで夫に頼むようになっていたのでした。私が「軌道に乗った」と思っていた居心地のよい場所は、夫からすれば、私のキンキンとヒステリックな声が響いている、限界点だったのでしょう。私はまるで自分の動かない体の代わりを得たように、いい気になっていたのだと思います。でも、夫はマグマ大使ではなく、自分の意志と決断で人助けをするウルトラマンタイプの人なのです。私は、障害者だからと差別的な扱いを受けた経験がありますが、逆に、夫に対し、自分でも気づかないうちに、「あなたは体が自由に動くでしょう」と言わんばかりの逆差別で追い詰めていたのです。

 私は、長いすれ違い状態の末、夫に心から伝えたい言葉を見つけ、夜中、暗闇の中で勇気を振り絞って話しました。「私にとってこの世の中で一番大切なのは、嶋ちゃんと大ちゃんなの」と。そして「見当違いかもしれないけど、私なりに反省した事を心を入れ替えて改めるから、もう一度やり直そう」と一方的に話しました。返事は無く、結局、夫の本当の気持ちは分からずじまいでした。

 しかし、翌日から霧が晴れたように、再び以前のような三人の生活が始まったのです。そして私も、安易に夫ばかり頼らず、自分でできるだけ対応するよう努め、また、それまで臆病で手を出せなかったこと(子どもと一緒にシャワーを浴びる、必要なときは子どもと二人だけで過ごすなど)にも少しずつ挑戦するようになりました。

成長という恵み

 子どもは成長とともに知恵もついてきました。1歳半の頃から、外出したとき車椅子を押したがったり、私が2階に上がる時、昇降機に私が乗り込んだのを見届けてからドアを閉めます。私がいざって移動を始めると、急いで先回りして襖やドアを開けてくれます。私が車椅子で台所仕事をしている時、物を落として声をあげると、飛んで来て拾って手渡してくれます。私がバランスを崩して倒れたりすると、一生懸命起こそうとしてくれます。私が上着を着るのを手伝ってくれたことがありました。普段は、興味の赴くままいたずらしている怪獣なのですが、不思議に私の動きに対して、いろいろ気が付いて助けてくれるのです。2歳半にもなると、車椅子に引かれそうな物をどかしてくれるようにもなりました。会話ができるようになり、物事も大分分かるようになり、頼りになるようになってきました。お父さんの影響も強いでしょうが、子ども自身の中にも私との生活で育っているものがあるのだろうと思っています。

ドキ・メロ日記は今日も続く

 平凡な三人の生活の中身は、ドキドキ・ハラハラ・ワクワク・メロメロの連続です。子どもと一緒の生活が、これほど刺激的で、魅力的なものだとは思いませんでした。私は、妊娠中から時々日記をつけていましたが、子どもが生まれてからは、もっぱら実家宛てにFAXを書いています。FAXを書いていると、オモシロイこと、新しい発見、ズッコケたことなどで一杯になり、書いている自分も楽しくなります。自分の手元にも日記のように残るので、いつか子どもに見せてあげるのも楽しみです。私は、昔から絵は大の苦手だったのに、つい文章だとじれったくなりイラストを入れたりします。私は写真はうまく撮れないので(ビデオではなおさら)自分の目がシャッターです。写真と違って絵はイメージの世界だから、どんな角度からでも描けるし、絵の中に自分が入ってしまうこともできます。絵の中の私について、時々「本物よりかわいい」とか「若い」とか「やせている」などのクレームも届きますが、それは描いている私の特権でしょう…ハッハッハッ。他人から見れば、他愛のないことでも、結構実家にはウケています。

 私は小さい頃、よく父に瓜二つだと言われました。その度に父は、満更でもないような嬉しそうな顔をしていました。時々、子どもが「まぁ、亡くなったおじいちゃんによく似ていること」と言われることがあります。父はやっぱり天国で、満更でもないような嬉しそうな顔をして、私たちのドキ・メロ生活を見守ってくれているでしょうか…。


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