1999/11/11 掲載
(2001/07/24 レイアウト変更)
1993年5月29日 石川美代子 このたび榎本先生の御招きによりまして、自分の拙さも省みず、北海道に旅行をさせて頂ける喜びが先に立ち、つい即座にお引き受けしてしまいましたものの、私は元来話べたで、さて皆様の御期待にそえるだろうかと、とても不安になって参りました。 けれども、日頃思っている事を、何とかお伝えしたいと思う一心で、今ここに立たせて頂いております。 また、このような講演会とよばれるお話は、はじめてでございますので、ふつつかな点が沢山ございます事と、何卒御許し頂きとうございます。 お聞きするところによりますと、苫小牧でも、教会が中心となり「生と死を考える会」を発足されましたようで、このような会が、各地で盛んになり、生と死について、真剣に語られる機会が多くなってゆく事を、私は心から願っております。 さて、今日お話をする「豊かなる死に向けて」という題をお聞きになりました時、ある方は死に豊かなどという事がありうるだろうか、それはただ、字づらだけの美しい言葉でしかないのではないかと思われたかもしれません。 私もこの題をつけてからずっと考えておりました。 それは、私は死を経験した事がありませんし、こちらサイドでいくら豊かな死と判断しても、さて、御当人の本心は、果たしてどうであったのか、などと思いますと、だんだん分からなくもなって参りました。 そして人間にとって一番大事な厳粛な生と死について、私などがお話する事は、全く不遜きわまりない事だと思ったのでございます。けれども、石川が召されます前に「これが本当のターミナルケアなんだねー。ありがとう、ありがとう」といった言葉に励まされ、勇気づけられて、私はそれを、ある豊かなる死と信じてこれからのお話をさせて頂く事に致しました。 人間は、誰でも生れる時すでに死を共に与えられているのであり、死と共に生れてくる事が定義づけられております。しかし私たち元気な時は、ついそれを忘れてしまって、自分はいつまでも生きつづけるような錯覚に陥っています。 そしてその死は貧富、地位、男女、年齢を問わず総てを超えて、誰にでも、これだけは必ず平等に来るものです。私はこの死という言葉を決して後向きの消極的な言葉とは思いません。 死とは日々の生活の積重ねであり、二度と繰り返しのきかない自分のそれまでの生活の総決算ですから、毎日をおろそかに過してしまったら、死を前にしてどんなに悔やんでも取りかえしがつきません。 私の尊敬しているすばらしいお友達に時々お会いしますと、その方は、「私は生涯現役だと思っているのよ」と、とても元気に言われるので、私はいつも励まされるのです。それに反して、「私はこの頃いつも死の事を考えるのよ」と言いますと、いかにも下向きの感じを与えてしまうようなのですが、結局精一杯生きた向こうに死があるのですから、全く違う事を言っているようで、同じ事を言っているのだと思いました。 紀元前千年以上も前に作られたという詩歌をその後の人が編纂したと言われる旧約聖書の「詩篇90篇」に「我らの年のつきるのは一息のようです。我らの齢は70年に過ぎません。あるいは、健やかであっても80年でしょう。その過ぎゆく事は速く、とび去るのです。我らに己が日を数える事を教えて知恵の心を得させてください」とあります。 人間は何千年も昔から自分の一生は、またたく間に過ぎてしまう事を知っており、その一日一日を賢く過ごす知恵を与えてほしいと神様に祈ったのです。 ですから私たちは、一息のように過ぎてしまう一生の、今日という自分にとって一番若い日を、精一杯生きようと、死を思う時、前向きの積極的な生き方になってくるのだと思うのです。死を前にした時、誰もが思う事は、自分の一生は何だったのか、自分の歩いて来た道はこれでよかったのだろうかと、来し方をふりかえるようです。 そして死ぬ事は、人間が生きる事を見せる最後の機会であり、最後の1ケ月は、その人の人生が凝縮されると言います。感謝の気持にいつも溢れて過した人は感謝しながら、不平ばかり言っていた人は不平を言いながら死を迎えるといいます。人は生きて来たようにしか死ねないというのは、こういう事なのでしょうか。 ただ例外としては、信仰による変化がありうるという事です。私は立派な死というのは単に大往生といわれる形の上の事ではなく、どれだけ多くの人から愛されつつ、自分が日頃信じて歩んだ道を終わるか、という事だろうと思うのです。 さて、私が死について、また末期医療ターミナルケアやホスピスについて深い関心をもちはじめましたのは、今から10年ほど前、私の所属している教会の一婦人が肺癌で召された時からでございます。その御病人を当時、私は毎日お見舞いしておりましたが、召される前日、余り苦しそうなので看護室に痛み止めを頂きにゆきました。ところが看護婦さんは、主治医の先生の治療方針に従っての事とは思いますが、患者さんの様子を見るでもなく「もうしばらく我慢してください」と言われたのです。 私はその時、こんな末期患者さんにまだ我慢をさすのかと、ある怒りがこみあげて来ました。そしてこれはどうしてもホスピスが必要だとその時痛感したのです。 それからの私は、教会でホスピスのアピールを一生懸命致しました。丁度その頃(現在聖路架病院長の)日野原重明先生が提唱された“東京都内にピースハウスを”というスローガンでホスピス建設の熱心なお話がはじまったのです。 私は早速後援会員としてその建設に夢中になり、孫たちは私の顔をみると、「ホスピスさん、ホスピスさん」とからかったものでございます。 それから募金は大分集まったものの、都内にというお話は、諸事情のため、なかなか進まずにおりましたが、ようやく7年たった今年8月に、いよいよ平塚市と秦野市の境、中井という所に完成の運びとなりました。 さて、ホスピスという言葉は近年急に言われるようになった新しい言葉ではなく、中世の修道院が巡礼で疲れた人や病人をもてなし御世話をした事にはじまります。ホスピタル、ホテル、ホスト、ホスピタリティーなども、ホスピスが語源といいます。 それが近世となり、20年くらい前から急激な医療の進歩によって病人をみるのでなく、ただ病気だけを機械で検査するような医療に変わってしまった事に対して、“これではいけない、病を持った人、病人をみる医療の原点に立ち返らねば…”と気付きはじめて、ホスピス運動もリバイバルをしたのです。 ところで、現在日本にある大きなホスピスは、一番古い浜松の聖隷ホスピス、大阪の淀川キリスト教病院のホスピス、東京郊外の清瀬救世軍ホスピス、小金井の桜町病院の聖ヨハネホスピス、福岡の亀山栄光病院のホスピス、沖縄のホスピスなど、キリスト教関係のものであり、ホスピスケアをしている緩和ケア病棟と称するものは昨年から始まった国立がんセンターの第二病院でもある千葉県柏市の国立がんセンター東病院や東札幌病院、仏教ホスピスの長岡西病院の長岡ビハーラ病棟など、あと個人的なものを入れてもだいだい20ケ所くらいと思います。 緩和ケア病棟といいますのは、内容はホスピスと全く同じですが、現在ホスピスといわれている所はほとんどキリスト教関係で建てられているので、何の宗教色もないものという事や、日本人にはホスピスという名前が死に場所というイメージで捉えられているようで、近頃は「ホスピス病棟」といわず「緩和ケア病棟」という言い方が多くなっているようです。そして、仏教でもホスピス運動が盛んになりつつある事を嬉しく思います。 このように今までのホスピスは皆、病院付属のものでしたが、中井のピースハウスは一戸建のイギリスのような形式のものであり、イギリスではじまったこのようなホスピスはイギリスでは700くらい、アメリカでは2000もあるといいます。 日本と欧米では社会事情が違うとはいうものの、日本の福祉やホスピスは、ぐんと遅れてしまいました。 私はその原因が、日本ではつい最近まで、死の話はタブーであり、縁起の悪い、口にしてはならない話と教育された事が大きいと思います。それは日本の文化や宗教、また子供の頃からの死に対する教育が欧米と違っていたからであろうと思います。 そして大方の日本人は、自分の宗教をもっておらず、宗教は結婚式やお葬式をする時の方法くらいにしか考えていませんから、病気の時や死に際しても何の力にも慰めにもなりません。 もう1つ、欧米では莫大な寄付をする企業や個人があっても、日本では儲からないホスピスにはお金を出す人がいないのです。今まで、医療従事者をはじめ、国民のほとんどが、近いうちに死を迎えるかもしれないような人のために、なお人間らしく生きる所の、しかも儲らないホスピスなど、とても作る気がなかったのでしょう。 医療は世界のトップレベルとなり、すばらしい経済成長をして世界一の長寿国、金持日本国になりましたが、人間にとって一番大事な生命と死について考える部分が大きく欠落してしまっていたという事は、日本人の心がいかに貧しいかを象徴しているように思います。 ホスピスという所は、皆様もう御存知だと思いますが、まず末期癌患者の痛みをとり、人間らしく、苦しい検査や治療は行わず、単なる延命よりも命の質(クオリティー・オブ・ライフ、Q.O.L.)を大事にし、病院のような規則でしばらず、出来るだけ家庭にいるのと同じ環境の中で残る日々、今日一日を大事に最後まで生きる所なのです。 一方病院での末期は、死の3ケ月、あるいは1ケ月前は最悪の状態となり1週間前は面会謝絶であり、苦しみの中でたっぷりの栄養剤を点滴され、気管に管、導尿と、生きているとはいえない、いわゆるスパゲッティー症候群の最もあわれな状況の中で、ひたすら忍耐しつつ残り少ない日々を送っているのです。 このようにおききになりますと、皆様は、自分の最後はホスピスの方がはるかによいと思われますでしょう。ところが、いざ末期が現実となった時は、とてもむずかしい事のようです。そして90%の人が病院で死を迎えており、日本ではホスピスは余り人気がないようです。 それは一般の方には、ホスピスは単に死に場所としか考えられないので、普通病棟からホスピス病棟あるいは緩和ケア病棟に移されたりしますと、せっかくの医療者側の善意とはうらはらに、私はここへ移されたのだからもうおしまいだ、もう見はなされたのだ、もうダメなのだと死ぬ事だけしか考えないのです。 あるいは身近な家族はホスピスへ入れたいと思っても、第三者の遠い親類などが、そんな所へ入れるなんてかわいそうに、もっと病院で手をつくすべきだと、手をつくす段階を超えているのに、無責任に勝手な意見を言って、入れさせない事もあり、何事も周りがうるさいムラ社会の日本ならではの弊害が邪魔をする事もあります。 そうでなく、自分が自分の病状を知り、他人の意見よりも、自分と、身近な家族の意見を重んじ、自分からホスピスに入り、そこで人間らしく、人間の尊厳を失わずに終わりを全うしたいと考える人にとっては、そのホスピスケアがどんなに豊かなものとなり豊かなる死へと向けられる事かと思うのです。 つい最近NHKで『故郷に輝く、いのちの日々』と題した長岡ビハーラ病棟における末期患者さん4人の、最後の2、3ケ月の生活が放映されました。私はこれが本当に最後まで生きるという事なのだと感動しました。家族の方々も、とても満足しておられ、その平和な死にホッとやすらぎを憶えた事でした。 また最近は在宅ホスピスケア、ライフケアシステムといって、お医者様を中心にチームで在宅患者の訪問看護をする事が盛んになりつつあり、事情がゆるせば、在宅で死を迎える事は最高であろうと思います。 人は、誰でも死にたくないと思うのが常ですが、いつか必ず死を受け入れなければならない時が来るのです。何事にも時があるという言葉が旧約聖書に出てくるのですが、「すべてのわざには時がある。生まるるに時があり、死ぬるに時があり、泣くに時があり笑うに時があり…」とずっと続きます。その大事な時を知る事の出来る人は幸いだと思います。 自分の死が近づいている時を知った人は、残された日々をどう過そうかと、なお生きる日々を考えます。諦めるのではなく、ここに希望があるのだと、私は思うのです。しかし、このように自己の確立が出来る人、精神的自立の出来る人は誠に少ないと思います。 このような時、宗教がある人とない人では、その時の受け入れ方が随分違って来るのです。キリスト教信仰をもつ人は、死が滅びで終わりではなく、新しい命に生きる新しい世界への出発と思うので、怖いと思う死も希望をもってのりこえる事が出来るのでしょう。 ここで告知の事について少しお話をしたいと思います。私は告知という言葉はきらいですが、その前は宣告といっていた時もありました。 一般に治る癌については私は知らせた方がいいと思います。 しかし、それも医師と患者とのよいコミュニケーションの中で患者さんの側に立った思いやりのある言葉が必要な事は言うまでもありません。しかし、末期患者さんの場合が一番むずかしいのです。 患者さん一人一人の人生観や宗教、環境、性格など各々違いますから、主治医はそれらをよく理解した上で決して一方的に、告知はすべき事なのだと自分の論理で言うような事は、つつしまなくてはならないと思います。 患者さんはだんだん自分の死が近づいて来た事に、自然に気づいてくるのですが、そんな中でも、もしかしたらまだもう少しよくなれるのではないかと、心はゆれ動いています。または今はとても元気なのに悪性で、手術も治療も効果がないと診断される方もありましょう。 ここで2つの例を申し上げたいのですが、1つは5月12日(日)の看護の日のフォーラムで話された事です。 歌手でキャスターというロザンナ加藤さんのおつれ合いが3年前、癌で亡くなられた時のターミナルケアの話です。 加藤さんは、お兄様が癌と知らされずに亡くなったのを見た時、もし自分がそのような事になった時はぜひ知らせてほしいと言っておられたそうです。そしていざ自分が同じ立場となりいよいよ末期になった時、主治医は奥さまであるロザンナさんにその事を言い、本人には言わなかったそうです。ロザンナさんは末期である事をおつれ合いの加藤さんに言おうか、言うまいか本当に本当に悩んだそうです。結局はっきり言わず、苦しみつつ病院で亡くなったそうです。ロザンナさんは99%ダメな人にその事を言うのは、かわいそうだといわれました。 私もその通りだと思います。どこまで治療するのかが問題で、死のほんのわずか前まで言わずに来てしまっているなら、言う言わないよりも、そのまま平安が得られるように周りの者が心を用いる事でしょう。 しかし、私はその主治医が、もっと真剣に共に悩みながら、もっと早い時期に本人に知らせて、たとえ1ケ月、数週間でも痛みなくホスピスで安らかに過ごす事が出来たなら、ロザンナさんも、あれほど苦しまずにすんだろうと思いました。 一方、まだ38才という若さでスポーツマンのすばらしい男性の方でしたが、非常にたちの悪い胃癌にかかり、まだまだお元気であるのに、もう手のつくしようがないと言われたのでした。 奥さまも、御本人もとてもしっかりした方で、また兄弟とても仲がよく手をつくしてもダメと聞いた時、皆で手わけをして方々のホスピスを見学し、お子さんがなかったので、浜松の聖隷ホスピスに決めて引っ越しのような形で入られる事になりました。そして奥様からおつれあいにありのままを勇気をもって話されたそうです。御本人も納得してホスピスに入られ、病院では考えられない環境でホスピスケアをうけながら、最後を迎えられたと感謝しておられました。 このように末期の告知はとてもむずかしい事です。 医師が患者さんにどのような形であれ、手のつくしようがない事を告知すれば、その後のケアは、その患者さんの苦しみ、悲しみ、痛みをその医師は共有する事になり、大変面倒な作業に取りかからねばなりません。 ですから、医師は、いい加減にごまかしている方がらくなのです。しかし、自分の病気でありながら、自分だけ知らないでごまかされつつ、あるいは知っていてもお互いに表面上は知らない振りをして死を迎えるというのは、本人も看護する者も双方にとって納得のいかないわり切れない苛立ちが後々まで残り、決して幸いではないようです。日本人は何でもはっきりものを言わない、あいまいが好きな国民ですが、それも時と場合によってはいい事もありますが、私たちはもっと事実を事実として認め、受け入れるべき事は受け入れる心の土壌を養う努力につとめたいものです。 そして告知のあり方も生命と死に関わる、人間にとって一番大事な仕事をされる医療従事者の方々の精神的な教育が本当に必要である事を痛感すると共に、医療従事者だけの責任とせず、患者も告知の受けとめ方、死に対する教育をうけ、互いに苦しみつつも人間成長につとめたいものだと思います。 さて、ここで、私の夫、石川七郎の死についてお話をしたいと思いますが、その前に石川がキリスト教信仰をもつようになったきっかけなど、少しお話したいと思います。 石川の生まれました家は仏壇や神棚はありましたが、ほとんど無宗教といっていい家でした。一方私は両親がクリスチャンでしたから、小さい頃からキリスト教教育の中に育ちました。 結婚後4年目に太平洋戦争が起こり、1942年(昭和17年)、石川は、3人目の子があと10日ほどで生まれるという時、フィリピンのマニラへ軍属としてゆきました。当時マニラのセント・ルーカスホスピタルは日本が占領して日本病院と改名され、そこでフィリピンのお医者様と共に働くようになりました。 けれどもだんだん戦局は悪くなり、石川は一般邦人の方々のお世話をしながら山の奥へ奥へと逃げこみ、飢えと病気で死んでゆく沢山の方々を看とりながら、自分もやがて、近い中に死ぬであろうと覚悟をしていたようです。そのような時にようやく戦争は終わり、日本の敗戦となって、米軍の捕虜となりました。そして今度はテントの米軍病院で米軍々医の方々と一緒に働く事となったのです。 そこで働くアメリカの軍医さん達は、敗戦国日本の一兵卒であろうが、米軍の将校であろうが、同じ一人の病める病人としてその人格を尊重し、何の差別もなく扱うのです。それは医者として当然の事でありながら、当時の日本では考えられない事だったのです。 今でも日本人は地位の高い人には弱く、自分より地位の低い人には威張る、いやな体質が残っていますが、当時の日本は軍隊をはじめ一般に至るまで、その差別意識はひどいものでした。そこで石川は同じ人間でありながら、アメリカ人と、日本人とどうしてこうも違うのだろうかと非常に驚き、その生き方に深く感動したのです。 石川は、このようなものの考え方は、いったいどこから来るのだろうと思った時、彼らの人格形成の基をなしているのはキリスト教信仰である事を知りました。そして石川は、人間にはぜひ宗教が必要であり、特に、愛、平等、平和、自由に生きるキリスト教信仰をもちたいと願ったようでした。この事がその後の石川の生き方に大きな影響を及ぼしたようです。 帰国後二人は、この戦争で多くの方が亡くなられた中で、なお、こうして生かされているよろこびを感謝し、これからは亡くなられた方々の分まで一生懸命働こうと話し合い、二人は共にドージャー先生という、日本生まれの宣教師からバプテスマ(浸礼)をうけクリスチャンとなりました。その後、今日まで44年間、神様の恵みの中で恵泉バプテスト教会において教会生活を続けております。 石川はそのテントの病院で、当時日本ではとても肺癌の手術は出来なかった時代にアメリカではどんどん行われている事を知り非常に驚いて、帰国後は肺癌の手術と研究に寝食を忘れて取り組み、情熱を注ぎつくしたのです。 そして医者として40余年の月日がすぎる中で、石川が若い時からモットーとしていた「治療は患者さんの側に立って行うもの」であり、聖書にある自分にしてほしい事を人にもしてあげるという医の倫理に通じるこの思いは、歳を取るにつれて、益々深まり、晩年はターミナルケアに心を集中していったようです。 そんな訳で晩年は二人でよくターミナルケア研究会に出席しましたが、末期患者さんにとって最善のケアは、その本人が一番望んでいる事をしてあげる事だという結論に達し、また、「自分が死ぬ時は家で死にたいから、ママや節ちゃん(隣にいる長男のつれ合い)よろしく頼むね」と言われ、まだ元気な頃でしたから、二人は顔を見合せて、これは大変な事になったと言ったものでございます。 さて、石川が亡くなります5年ほど前、当時はまだ国立がんセンター総長という激務の日々でしたが、ある日一人のお弟子さんの先生から電話が私にかかり、「石川先生は肝硬変になっておられますからお酒はお止めになった方がいいですよ」との事でした。私はその時、眼の前が真っ暗になり頭がクラクラッとするほど驚きました。それは、肝硬変というのは治らない病気ですし、肝臓癌になる率が非常に高いと聞いていましたから、夫はこれから先、余り長くは生きられないかもしれないと、その時、私には、ある心構えが出来たように思います。 そしてお酒もタバコも止めた方がいいという事で森永キャラメルの愛用となりましたが、その頃から足がむくんで来て、私はとても気になり一度詳しく調べて頂いた方がいいのではないですかと、すすめておりました。そんな時石川の方から、明日から人間ドックのように、入院して検査をする事にしたよ、とケロッと申しますので、私はホッとして、それはよかったと申した事でした。 しかし、その時石川はすでに超音波検査で自分が癌に侵されている事を知っていたのです。石川は家族の誰よりも一番先に、自分が癌である事を知ったのですが、私は家族の思いやりで一番後に知らされました。ですから一般の方のように、患者さん本人にどのように知らせるかという告知の事で悩む事がなかったのは誠に幸いだったと思っております。 私は石川が癌であると知らされた時、肝硬変ときかされた時よりも、自分でも不思議なくらい冷静に受けとめる事が出来ました。それは、とうとう来るべき時が来たという感じだったのです。今思いますと少しずつ心の準備が出来ていたところへ二段階にわけて告知されたような形だった事が、ひどいショックを受けないですんだのだろうと思います。 一方石川はどんなに残念に、くやしい思いだったろうと思います。そして外科医である石川は、死んでもいいから手術をしてほしいとしきりに願いました。しかし手術のメリットが全くなく危険度が高いという事で、それでは本人の希望通り無駄な治療はしないという事になり帰宅となりました。 この時もし石川が何とか生きのびるため、あらゆる最先端の治療を受けたなら少しは長く生きられたかもしれません。しかし私は、それが石川にとって幸いだったとは思えないのです。 また、石川は多くの患者さんの病院での死を見て来て、自分は家で死にたいと思ったのはうなずけるのですが、それにもまして、それまでの先輩方が病院で死を迎えられたのを見て来て、自分は、ただでさえ忙しい先生方に大変な負担をかける事はしたくないと、家での死を願った思いを察する事が出来ます。 その後の石川は心の切り替えが非常に早い人でしたから、あんなに願った手術も二度とは口にせず、それからは何の治療もせず、お薬ものまず自然の中に生きる道、それは神の摂理によって生きる道を選んだのです。 それからの1年間、私たちは方々へ旅行をしたり、好きな読書にふけったり、また倒れる2日前まで名誉総長室に通って、多くの方々と、つとめてお会いし、お話をしていたようです。ですから身近な方以外、ほとんどの方は石川が癌に侵されている事を御存じなかったようでした。当時、日野原先生も石川の室を訪ねられ、ホスピス建設の協力を求められた事を後になって、大変な時期に大変な事をお願いしてしまったものだといわれた事でした。 石川は死線をこえる戦争体験や、高齢になっても一人で登山をしたり、孤独と患難には非常に強い人でしたが、それでも死と向き合って過ごす毎日はどんなに辛かったろうと思います。しかし愚痴をいう事が一番きらいであった石川は、全くそれまでと変わりなく、ふと、はたの者が病人である事を忘れてしまうような日々でした。 そして石川が静脈溜破裂で吐血、下血がはじまった時、今まで話合っていたターミナルステージがいよいよ現実となって来たのです。私は悲しさよりも、それまで話し合っていた事を、どのように実行したらよいかと必死に考えておりました。 石川にがんセンターにゆきますかと聞きますと、ゆくと申しますのですぐ救急入院となりました。入院した石川は止血菅を鼻から食道、胃へと入れていましたがとても苦しそうで何度も取りはずしてほしい仕草をするのです。早く取りはずしてらくにしてあげたいと思う一方、もしはずして出血多量で急変したらどうしようと迷う思いをたち切って、主治医の先生に取りはずして頂きたいとお願いしました。先生は一瞬ためらわれたのですが、生前無駄な治療はしないとお約束していた事を思い出されたのでしょう。決断して取りはずしてくださいました。幸いな事に出血は止まっていました。石川はそれまでとは全く違う安楽な顔つきとなり私はその顔を見てホッと致しました。 その時もし出血多量で死ぬような事になったとしても、石川も私も悔いはなかったと思います。 そこで私は4日目に石川を家へ連れて帰ろうと決心しました。その時、本当に神様のお導きとしか思えないのですが、ふだんは週に何回か家へ帰れない日もあるほど忙しい、隣に住む婿の東海大学医学部の外科医である田島知郎が、10年目に頂く半年間の休暇に入っておりアメリカ行きを予定していた時なのでした。 家に帰ってからの石川は、病院にいた時とはうって変わった和やかな顔つきとなり、早速子供たち3家族6人と私は各々の家族の都合にあわせた24時間ケアのローテーションを組みました。 そして最後の晩は医学生になっていた孫まで付き添ってくれたのです。じいじに取ってはどんなに嬉しかったろうと思います。 石川は意識のはっきりしていた時、娘の手を握って「チームワークがいいねえ。これが本当のターミナルケアなんだねー。ありがとう、ありがとう」と満足してくれました。私たち看護をしていた者は、この言葉をきき本当に満足して送る事が出来たのです。それは本人と残された家族にとって何よりの慰めでありました。 石川のターミナルケアがこんなにうまく行ったのは、第一に隣にいる婿が外科医であり看取ってくれた事は言うまでもありませんが、それに加え、生前から石川と私の間で、ターミナルケアについてよく話し合いが出来ていた事。ですから看護する者が患者本人の意志を重んじ、本人が一番望んでいた事をしてあげようとつとめ、看護する者の意志が優先する事なく、例えば1日でも長く生きてほしいからといって苦しい治療を強いるようなことはしなかった事、またここで家族の意見が一致していた事もとても大切な事でした。 人間関係というものは、大変むずかしい事だと思うのですが、私たち4家族は、いつもイエス様の愛を土台とした交わりの中で長年にわたり、深い信頼関係を築いてきた事が、非常時に際して何よりも大事な事だったと思います。急に心をあわせて1つ事に当たるというのは至難のわざでしょう。このように、私たちは日頃生きて来た信頼関係の中で、たとえ種々の事情により、よい条件が揃わなくても、看護する側、される側のお互いの心が通じあっており、死に対する心構えが出来ていれば、それなりに豊かな死へと向ける事は出来るのではないでしょうか。反対に、どんなによい条件が揃っていても長年にわたる貧しい心の交りしかない中では、寂しい死を迎える事になるでしょう。 さて、私たちは、今まで入院すれば総てお医者様におまかせするのが常識のように思われて来ました。ところが、この頃はインフォームド・コンセントといって‥‥説明と同意と訳されていますが‥‥お医者様が、患者本人と家族に病気の状態を説明し、治療方針について患者側の意志も聞きながら決めてゆくようになって来ました。 せっかくこのようによい方法がなされるようになっても、患者側で本人と家族がそれまで何の話し合いもなく、自主性がなかったとしたら納得のいく治療を行ってもらう事は出来ないでしょう。あるいは、自主的にすべてを信頼する医師にまかせるという選択もあるかもしれません。そしてその場合は後で愚痴は言わない事です。とにかくこれからは、自分の生き方からくる死のありようを自分で選択する、自主性を問われる時代になってくると思います。 私は今後、上智大学のアルフォンス・ディーケン先生が提唱されるデス・エデュケイション、死の教育やホスピス、在宅ケアの運動が盛んになり、日本のターミナルケアに多くの人々が関心をもち、心が注がれ、医療従事者と患者が一体となった質の高い生と死が行われるようになる事を心から願っております。 近年は「医療と宗教を考える会」も出来ております。そして私は生命と死に関する事は教会が中心となって広げてゆく事でもあると思っております。 私は今、皆様にこのようなお話を致しましたが、さて自分の末期と死の体験はどんなだろうと思います。願わくは、意識がはっきりした中で、末期の気持を家族に言い残す事が出来ればいいが…と、死に対してある期待といっては大変傲慢でしょうが、そんな気持ちになっております。あるいはその時すっかりボケてしまって何もかも分からなくなってしまうかもしれません。そのような時は、それもまた神様の思し召しでありイエスさまのとりなしのある事を信じたいと思います。 さて、国立がんセンターの一隅には、「石川庭園」と称する小さいお庭があります。そこに、石川の字で『愛は寛容にして慈悲あり』という聖書のみことばが彫られた小さな碑があります。それは石川が晩年、人間にとって一番大切なものは愛であり、人が豊かな生と死に向かって生きようとする時、それはイエス・キリストの示された愛に生きる事であると確信したからであろうと思います。 また、私の今願っております事は、順境にある時だけ主を讃美するのではなく、近い将来に必ず来る死の床でも「神のなされる事は皆その時にかなって美しい」と、なお主を讃美し、平安の中に希望のいのちをみつめながら召される信仰をもっともっと確かなものにしてゆきたいと思う事です。 最後にこの事を申し上げて終わりにしたいと思いますが、石川が召される前日、私の恵泉バプテスト教会牧師の藤田英彦先生が見舞いに来てくださり、旧約聖書エレミヤ書24章を読んでくださり、共に祈ってくださいました。
私は、神様の御計画の中にある私たち一人一人の人生を、神様は祝福してくださり、神様のもとに帰る日を備えていてくださるのだと本当に慰められました。そして、このみことばを、石川が召された後も、何度も何度も繰り返し読んだものでした。 私は、主イエス・キリストの愛の中に生きる人生は何と豊かであるかを、今日も1つ1つの出来事を思い起し、心から感謝して、しみじみと幸せを味わっております。 |