皆様は、パソコンボランティアをしたい、あるいはパソコンボランティアに関心があって集まってきた方々なわけですが、パソボラもボランティアのひとつです。集まってきた人の中には、ボランティアのベテランさんがいるかもしれませんが、ボランティアが初めての人、久しぶりの人もおいでだと思います。ここで、あらためて、
ボランティア活動を始めるための基礎知識
を紹介したいと思いますが、でも、そういう話題に入るとなると、
なんてことが語られたりするものです。
これまた「意味」論となると議論百出モノですが、でも、本来的な「ボランティアの意味」を知っておくのも悪いことではありませんので・・・と続けようと思ったんですが、今回、この部分は割愛します。
学問的究明を目指すなら欠かすことの出来ない“最初の一歩”ですが、“最初の一歩”で身動きが取れなくなって次なる二歩目が踏み出せなくなる自信がありますので (笑)、私なりの「ボランティア」への思いはありますし語ろうと思って準備しておいたものはありますが、核心を付いた問い掛けがあったら応える用意はあるぞという(私の中の)心の準備と、こーいうコトを聞いたらマズイなんてコトはありませんから遠慮しないで突っ込んだ質問歓迎の表明に留め置いて、次に移るのでありました。
ボランティア活動では、自分で見、考え、自分で判断して実行に移すことが大切です。人から言われてやらされているのではなくて、自分で始めたこと、自主的に始めたことですから自主性を求められているのです。やれと言われてやらされる奉仕活動や、「ボランティア活動」に参加すれば点数を付けてもらえるからと参加を申し込んだ…というのとは別だということです。
たとえ色々な事前の調整をしてもらうことがあったにしても、最終的に動くのは(動けるのは)「パソコンボランティア」の現場にいる自分です。相談はできても、決断し実行する(あるいは実行を見合せる)のは自分なのです。なんてあたりは、別に「パソコンボランティア」でなくても同様ですね。
ボランティア活動は、個人の自主性・主体性から出発する活動であるからといって、それは自己満足や単なる善意に留まる活動ではありません。
このことでのありきたりな話は省略して、一歩進めて考えてみましょう。日本障害者協議会JDプロジェクトのプロデューサーでもある「全国障害者問題研究会」(全障研)事務局長の薗部英夫さんも『パソコンボランティア』(日本評論社)の中でこのように語っています。
様々な障害のある人たちの切実な願いに応えるためにも、公的な責任で整備すべきところはきびしく問いながら、「パソコンボランティア」したいという多くの人と人とのつながりを大切にしていきたい。
いいですねー。ボランティアに参加することで、最初は「単なる善意」だったかもしれませんが、そこから変わっていくし、変えられていくのです。ボランティア活動は、「良き市民」を育てます。でも、「良き市民」の定義については、賢明にも踏み込みません (笑)
ついでながら、「ボランティア」が絶対かというとそんなことはありません。北欧では、日本でいう「ボランティア」は存在しないのです。障害のある人が自分でサポートする人を選んで雇い、国や自治体がその費用を支払うという、「パーソナル・アシスタント」制度があります。日本の福祉分野では(まあ、福祉に限らずですが)ボランティアが福祉の現場を支えているという現実があるからといって、それが国や地方自治体の責任放棄の(現状)追認になってはいけないと思っています。
もうひとつ言うと、そもそも(パソコンを使う上で)サポートすべき第一義的責任は誰にあるか、です。
パソコンに用いられている部品が日進月歩だからといって、それをパソコンという形にして売っているメーカーはあるわけで、販売したからにはサポートの責任もあるのです。ソフトメーカーも同様です。
けれど、実際にサポートが追い付いているかというと、電話が全然つながらないとか、つながるとしても、受付は10時から12時までと13時から17時まで。昼間に働いている人にとって私用電話をかけることができる時間帯である昼休みはユーザーサポートもお休みです。ユーザーサポートの担当者さんが昼休みを取るのは当然ですが、どうして交代で昼休みを取らないのか理解に苦しむところです。
加えて、土日と祝日はサポート窓口がお休みのところには、勤め人は自宅でも会社でも電話のかけようがありません・・・などというのは、メーカーが改善すべき点です。メーカー以外に解決しようが無いんですから、「パソコンボランティア」がどうにか出来ることではありません。
では、障害者にとってはどうでしょう。電話回線の向こうにいるサポート担当者は、画面が見えていない相手が電話をかけてくることを想定しているでしょうか。電話をかけてきた相手の言葉が伝わりにくい発声である可能性を想定しているでしょうか。
そもそも、電話によるコミュニケーションが極めて困難な聴覚障害者のサポートを想定しているでしょうか。FAXやメールによるサポート受付けを販売している各社がしているかといえば心許ないのが現状です(FAXやメールで回答すると証拠が残るということなのか、大手家電メーカーの「ユーザーサポート暴言事件」以来、それまではしていたFAXやメールでの回答をしなくなっているという傾向があります)
ところが、それにも関わらず、「誰にも簡単」っぽく、おおよそこの方面には疎いと思われそうな明るいシャベリの元野球監督や朴訥(ぼくとつ)なイメージの男優を広告搭にして売っているのがパソコンです。そういう人でも(と言ったら失礼かもしれませんが)簡単に操作できるような宣伝しておいて、にも関わらずサポートに電話殺到を繰り返しているということは、、、確信犯ですよね。
でも、販売各社が販売責任を全うしていないからといって、SOSに知らんぷりでいいものか!というのはあります。「井戸に子どもが落ちたら?」というのは古典的な問い掛けですが、井戸に子どもが落ちたら、助ける前に名前や住所や電話番号、椎茸は嫌いか?とか浦和レッズは好きか?なんて聞くでしょうか。ともかく助けて、聞くとしてもそれからですよね。「パソコンボランティア」でも一緒です。メーカーが責任を果たすまで待っていたら被害者は救われません。
「被害者」という言葉に抵抗を感じる人もいるでしょうが、パソコンが「誰にも簡単」で無かった以上、「誰でも簡単」は口車。買わされたことで困難に陥っている人は、誇大広告の被害者です。ともかく助けることでその場の問題は解消したにしても、そのことでメーカーの販売責任が消滅するワケではありません。先ほどの薗部さんの発言を借用するとこうなります。
様々な障害のある人たちの切実な願いに応えるためにも、メーカーの責任はきびしく問いながら、『パソコンボランティア』したいという多くの人と人とのつながりを大切にしていきたい」そういう「パソコンボランティア」でありたいものです。
ボランティアは、金銭的な報酬を期待して行なう活動ではありません。端的に(いや、極端に)言うと、お金をもらってやるのが仕事で、お金を払ってやるのがボランティアです (笑)
でも、だからといって全てが持ち出しかというと、掛かった費用の実費は当然のこととして依頼者の負担です。依頼者本人の要望を、本人に代わって行なっているのであって、本人がやっても掛かる費用は誰がやっても掛かるのです。でも、このことは事前に確認しておいたほうがいいですね。
それと、ボランティア=無償が当たり前のこととして語られておりますが、果たして本当でしょうか。ボランティアが無償であることの根拠を100字以内で述べよ!と言われて答えられる人がどれだけいるでしょうか。それが1000字であっても根拠をもって答えられる人はあまりいないと思います。
ボランティアをするということと、無償であるか有償であるかというのは別の議論です。仮に、自分にとっては“ボランティアだから無償が当然”であっても、他人は自分ではありません。「ボランティアだから無償」を掲げ過ぎないようにしましょう。ご自分が信念をもって無償を貫いたりお礼を返上するのは構いませんが、無償であることを求める議論の延長線上に、「ボランティアでやってよ」という“ただ働き”が潜んでいるのはよくあることです。
そもそも、ボランティアさんに出されるお金なんて知れています。ボランティアでない人を雇って同じことをしてもらうための見積もりを出してもらったら、とうていそんな金額では済まないはずです。それに、ボランティアをするためには(それが普段の仕事ではないだけに)準備だけでもかなりの時間がかかりますし、それなりにお金も費やしているのです。
ボランティアは金銭的な報酬を期待して行なう活動ではありませんが、相手の人から感謝の気持ちとして受け取ってほしいと出されたものであるならば(受け取らないことには心の安らぎを得られそうもないのであれば)、それが今後のボランティア活動を拘束するものでない限り、受け取っても構わないと思います(ので、どうぞお受け取りください)。使い道は託されているのです。どう活用するかは、あなた次第です。
先ほども触れたことですが、ボランティアの役割は、公的施策の代替えや不備を補うものではありません。まして、行政の下働きでもありません。行政にも議会にもしっかりやってもらわなければ困ります。
ボランティアは、行政とは別の(独自の)視点でもって、個別的な対応を具体的に行ないます。そこでは、今、何が必要とされているかを考え、今、ここに無いもの(欠けているもの)を生み出すという創造性が求められています。
行政の枠にとらわれないで活動できることは民間であることの強みです。行政にさきがけて活動を進めることができるという先駆性がボランティアにはあります。ボランティアの活動が具体的な実例となっていくことで、行政や議会を動かしていくのです。皆様も、ボランティアをする中で気がついたことを、どんどん公的な機関に届けましょう。何と言っても、皆様は主権者なのです。そして、ボランティアがやってきたことを公的機関にバトンタッチしながら、次なる課題に取り組んでいきましょう。
さて、「ノーマライゼーション」と並んで耳にする言葉に「バリアフリー」があります。「バリア」すなわち「障壁」からフリーになるということです。「バリアフリー」などというと難しく聞こえるかもしれませんが、「右利き」と「左利き」で考えてみましょう。
そのへんにあるハサミを左手で使おうとしても使い難いですよね。むろん、あなたが右利きの場合は、ですが (笑)。自然に使えてしまっている人にはなかなか分からないことですが、大概の左利きの人は使いにくいハサミを使っているのです。これは、障害のある人がパソコンを使用しようとするときにもいえます。
大概の人はパソコンの画面を目で見て操作してますよね。それでは、画面が見えない人はどういった方法で内容を確認しているのでしょう。画面は見えても大きな文字でないと読めない人もいますし、狭い範囲にある文字しか読めない人(大きい文字だと見える範囲からはみ出すため読めない人)もいます。文字の色と画面の背景色をうまく組み合わせないと文字が見えない人もいます。
視覚障害者に限った話ではありません。年齢を重ねるに従って段々と小さいものが見えにくくなるものですし、皆様は平気で行なっているマウスでのダブルクリックだって、人によっては大変なことなのです。こうして考えていくと、障害者にも使いやすいモノとして用意されているものは誰にとっても使いやすいものなのです(障害者にも使いやすい製品かどうか、障害者にも暮らしやすい社会かどうかは、製品や社会を測るバロメーターです)。
まあ、このあたりは、正確にはバリアフリーの課題ではなくユニバーサルデザインの課題でありまして、パソコンに限らず、あらかじめ誰もが利用できるように設計の段階から(あるいは計画の段階から社会的に)備えておくのがユニバーサルデザインなのです。
但し、ユニバーサルデザインが目指しているものは“誰もが利用できること”ですから、障害という具体的かつ個別的なものへの対応となると、必ずしも万全ではありません。障害に応じたハサミの選択が必要となることも少なくないでしょう。ユニバーサルデザインはあくまでも前提です。その上でのバリアフリーこそが必要なのです。
それと、生活関連施設が充実しているかどうかの地域格差はよく耳にしますが、近年は、新たな格差としての「情報格差」(デジタルデバイド)が言われています。「ノーマライゼーション」のひとつとして、「情報バリアフリー社会」を目指したいものです。「パソコンボランティア」としての成長は「情報バリアフリー社会」の担い手としての成長でもあります。
ただ、パソコンボランティアは、今まで存在していなかったボランティアですので、問題に遭遇したとしても前例として参考にできることが、なかなか無いのが実情です。ボランティアの新しいフロンティアにいるパソコンボランティアは、新しい分野の開拓者だけに“開拓者の困難”に何度も何度もぶちあたります。どこで活動するパソボラであっても先駆的にならざるを得ないのです。それだけに、パソコンボランティアの活動では、創造性が求められているのです。